ただの独り言

大学生になって3年目に入り、1Q(前期の半分)が終わったが、学年が上がるにつれてとある1つのことをよく考えるようになった。それは「自分はなんのために生きているか」という自分自身に対する問いである。

高校生までは、自分で何も考えずとも、家族、そして学校が敷いてくれるレールに乗って暮らしていれば、何の生きづらさも感じることもなかったであろう。(専ら苛めや、学校に行きたくない、朝が起きれないなどという点を除いては。。。)少なくとも自分は、生きづらさを考える余地が無いほどに1日が充実していたと今になって振り返ることができる。

それとは対照的に、大学生になれば、世間体でも自主性が重んじられると言われている。実際に自分が大学生を経験してみて思ったことは、自主性<<自由に使える時間が増えるといった方がしっくり来るということだ。その時間はサークル活動や恋愛、課題、アルバイトやインターンなどに費やすのが定番である。うまく1週間の予定を充実させれば、達成感を得られ、生きづらさを感じることはほとんど無い。自分も、週5で授業をいれ、バイトまでの時間を課題に充て、バイトにいって家に帰って1日が終わる日や、学校→サークル→帰宅→課題→1日が終わる日の寝る頃には、「今日も頑張ったな」と、自分を誉めてあげたい気持ちが生まれる。そうして自分を肯定してあげることで、自分という存在を認めることができる。

では何故生きる意味について考えるのか。言い方を変えてみよう。「なぜ自分を誉めてあげられなくなったのか。」そのすべての根本は、「惰性」にあると自分は考える。

自分が生きる意味について考えるようになったのは、 2年の3Qが終わった辺りである。当時の自分は、研究室配属のための成績を集めることを理由に多くの授業を受講していた。当然その分自分が勉強する量は増えるが、その事に対しては特に後悔はない、ただ1点を除いては。それは、「勉強と言う名の海に浸かりすぎて、海そのものの綺麗さを見失ってしまった」ことである。

自分が専攻している生命科学は、ざっくりいうと、「生命現象を物理と化学で理解する」といったような学問である。学年が上がれば、受講する各科目のウェイトも重くなるわけだが、科目をとりすぎて1つ1つの単元のポイントを暗記することが学問だと勝手に勘違いしてしまっていたのだ。いや、そうならざるを得ないように自分が仕向けてしまったと言うべきだろう。いずれにせよ、至り着いた先は、「何故自分はこのような勉強をしているのだろうか」「付け焼き刃の暗記で何になるんだろう」といったある種の不安である。

こうした不安は次に、「何のために大学に来たのだろう」という発想に至り、最終的に「自分は何がしたいのだろう」「何のために生きているんだろう」という煩悶に変わる。周りには、一目置くような志の高い同期も多くいるが、それ以上に多いのは、ただ大学に合格しただけの学生である。彼らや
、勉強する価値を見失った自分に共通する者は、ただただ「惰性」なのである。

自分が1年生の頃、授業の一環でautophagyの作用機構解明でノーベル賞を受賞された、大隅先生のお話を伺う機会があった。そこで先生がおっしゃったのは、「研究で一番重要なのは、人の役に立つことではなく、研究を面白いと思い、突き進めることのできる探求心である」とのことだった。この言葉は、海に溺れていた自分をしばし掬い上げてくれた。惰性で勉強するのではなく、何か学習していることと身の回りとの繋がりを知ると、何か点と点が繋がったかのように急速に理解が深まり、同時に生命現象の神秘さに惹かれていくのを感じるようになった。

充実した学生生活、人生を送るには、中二病に思われるかもしれないが、「自分で自分を認めてあげる」これに尽きると思う。

そのために、 勉強でも、部活、サークルでも、恋愛でも、バイトでも何でもいい。自分が本当にやりきった、と後悔のない学生生活を送ることが重要である。そうすればそこに「自己」は必ず存在し、それを実感することで認めてあげることができるであろう。

やりたくないことの勉強、そこに価値を見いだせない勉強は本当にきつい。しかし、実際にやってみなければきついかどうかはわからない。多くのことに触れ、新たな知見を得て、俯瞰的に自分の人生計画を立てていきたいと思う。


最後に、この言葉を紹介したい。

「勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記《あんき》している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!」
(太宰治,正義と微笑より)

この言葉は、本当に心に突き刺さる。面白いと思える分野もたくさん見つけたので、好奇心、探求心でこれからも精進しようも思う。おしまい。


p.s.
5月始めからオンライン授業と課題を、家から1歩も外へ出ず、固い椅子に座ってずっとやってたら 6月始めに痔になりました。